罪悪感や自己否定を持つことはありませんか?

farfadet

子どもが不登校になると世間の目や先生、祖父母の目が気になるようになりました。
以前から気にならなかったわけではないけれどそれが強く意識されるようになったのです。
人と違うことをしている、人と同じことができないということがとても重荷に感じられて「私のせいで」学校に行けないのではないか、あの時のあの接し方が悪かったから、この時のこの反応の仕方が悪かったから、ここは厳しくしすぎたかな、ここは甘くしすぎたかな、本当に振り返るとキリがありません。

でも順調に?学校に通っているお子さんの親御さんでも振り返って完璧だったと思うことはなく、一見順調、人と同じことをしているので振り返ることが少ないだけだと思います。

私の場合、甘やかしと言われることもあります。
けれど客観的にみたときによその方(今までの同級生の知人)と比較して、表立った行動では特段甘やかしたことがありません。
今の公立の小学校、中学校、普通に親御さんが忘れ物を届けます。
知人や親戚のお宅の話を聞いても必ず誰かが届けたり、宿題を手伝ったり、お子さんが家での手伝いもしたことない、そんなお宅は多いです。
今の時代、宿題や時間割の手伝い、忘れ物を届けることは学校からも当然のように求められます。
私は全部自分でしてもらい、家事も一通りできるようにして手伝いもしてもらい、忘れ物は自己責任とみなして届けずにきました。
自分のことは自分で決めるように促してきました。
いいとか悪いではなく私はそこまでする必要はないだろう、ここは生きるのに必要だから、宿題は忘れたら怒られればいい、傘を忘れて雨に濡れるのも経験かなと思っていたからです。
けれどそれでも甘やかしと言われるのは意味がわかりませんでした。

あとで気づいたことはあります。
甘えたかったという私の強い思い、満たされなかった思いがあったがために子どもたちを甘やかすことで私自身が癒され満たされていた部分があり、
それは表立った行動として直接は現れないけれど強い思いとして私の根底にあるので、それが私のフィールドの中で子どもたちを守りたいという過保護な感覚として出ていたように思います。
目立った行動では出なくても思いとしては過保護になっていたのです。

けれどこんなことは月日が経ち、心理学とも異なる自分の心の内側を観察するようになったから少しずつわかるようになっただけのことで、知識もなく毎日を必死で生きていたあの頃に気づくのは私には無理でした。
知らなかったから仕方ないじゃない!他にどうすりゃよかったのよ!と怒りに燃えていた時期もありましたが、今はただ仕方ないよと思います。心理学を学び、全力で子どもに関わってきて思いつく限り、できる限りのことをしてきました。それでも「理想通り」には育たなかった。それだけのことでこれからも思いつくできることはするし、できないことはしない、それしかないのだと過去を諦めるに至りました。笑
そして今も持っている「甘えたかった」という強い思いは私自身が納得できるまで大切に持っていようと思います。

 

ちなみに私が抱いていた理想とは!
第一に「普通」であること。
学校に行ってる間は成績はいいに越したことはないけれど、それより友達に囲まれ部活を楽しむそんな私が思う普通を過ごして欲しかった。
そして学校に行かないならさかなクンのように一芸でいいので何かに夢中になってそれで生きていけるくらい特別な力を発揮した存在になってくれたらと思っていました。
「普通」でもあり、特別でもある、社会を楽に生きていくために必要だと思っていたもの、それが私の「理想」でした。


みなさんはどのような理想の姿があって、どのような後悔がありますか?
理想の姿でさえきっと十人と色なのだと思います。
そしてここに来られている方はどのかたもきっと自分なりにお子さんのことを真剣に考えこれが最善と思える子育てをしてこられたのではないでしょうか。
上手く行かなかったとしてもここまで頑張った自分をできるだけ許してあげてください。
実はその方がお子さんも歩みやすくなります。

今日も一人中学生の男の子が自ら命を絶ったニュースが出ていました。
どうか社会の枠に縛られず子どもたちひとりひとりが命を輝かせることができますように、微力でもその助けとなりますようにとここに私の経験を綴っていきます。


#学校 #不登校 #引きこもり #親子 #親子の関係 #それぞれの光を発揮しよう


ha11okによるPixabayからの画像

 







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